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エゴを超える [奏墨]

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季節は晩秋の趣。 色づいてくる景色は心のようにゆらめく。
外側の風景は自分の内側の反映。
悲しいときは悲しい景色。楽しいときは輝いて見える。
そしていろんな思いを日々経験していく。

このごろ起こってくる出来事は自分の内面の反映と思える。
「こうだ」 と思うと このようなことが起こってくる。
「ああだ」 と思うと あのようなことが起こってくる。
したがって自分が思わないことは起こってこないと言うわけだ。

エゴにとってはなかなか信じがたい話だ。
「そんなことはない」 こんなことが起こったから自分はこんな風になった。
と自分のエゴは主張するだろう。
エゴの考え方は実に悲観的だ。 いいことも悪く考える癖。

エゴとその奥にある本当の自分。 この構造の認識。
世界を変える、 ほんの第一歩だ。


「っん」 [奏墨]

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奏墨: 「っん」 1999年作

大仏さんを見て廻って帰ってくると 「ん」像がきゅっと睨んでくる。
「どうだった」。 というような声が聞こえてくる。

東大寺のお坊さんが「あ」と「ん」が始まりと終わりを表すのではなく、無限の時空の流れのひとこま。
と言われたのを思い出す。

過去と未来に生きる限り永遠はやってこない。
つまり日々時間に追われるわけだ。
そうして時間と空間に閉じ込められる。

本来はもっと自由なはずだ。

10年ぶりに墨の展覧会を開きます。
2013年11月5日~10日
京都:三条木屋町上る・ ギャラリー中井

「っあ」 [奏墨]

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奏墨:「っあ」 1999年作

東大寺南大門の「あ」像、迫力満点。 見る者をまさしく「あっ」とさせる。
東大寺に入る前に気分を入れ替える効果満点。
人間の大きさを否応無く測られる。
自分の小ささを感じるのも決して無駄ではない。

通り過ぎるものを通り過ぎるままに、見守るのは普通の人間ではできない。
何かしら問題を見つけて何とかしようとする。
たいていの事柄には問題がない。
問題が無いのにあえて問題にしてしまう。 そんなところから多くの悲劇が生まれる。

何気なくすっーと門を通り過ぎる。 「難題門」ならず「南大門」。
「あ」 と 「ん」 の心静かに通りなさい。 の声が聞こえるか聞こえないか。

ルマンレ [奏墨]

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2003年 作 奏墨:「ルマンレ」

きのうセミの第一声を聴いた。 
今日はもう真夏。 あまりに暑いのでかえって気持ちが良い。

奏墨: 綿の生地に下地を塗って、そこに墨で絵を描いていく。
墨の滲み具合が和紙とはちがって独特の広がりを見せる。
でも思うようにならない。
そこが魅力的だ。

この展覧会を京都で10年ぶりに11月に開催することになった。
随分と時間が空いてしまった。
気まぐれな性格で描きたいと思わないと描かない。
久しぶりに描いてみると、同じ墨のでもこれだけ色が違うのかと、
改めて感じいっている。
さて10年ぶりにどんな自分が現れてくるのか、人事のように楽しみだ。

待つこと [奏墨]

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1997年作 奏墨「この思い」

携帯電話が無かった時、駅などで待ち合わせをしても、殆ど間違えることも無く友人と会えたものだ。
そして不安に陥ることも無かった。
でも今や携帯がなければ人と待ち合わせをすることなど考えられなくなった。
人の持つ能力が一つ減ったような気にさえなる。  
また待つことにもそんなに違和感がなかったのも事実だ。 
そう待つ事ができたのだ。 それがいつしか空白の時間はあってはならないと。 

今という時、常に何かをしなければいけないと言う強迫観念が生まれる。  
ジッと今を味わうことも罪悪のように感じ、いつしか何もしないことに耐えられなくなる。  
そうしてツイツイ余計なことをしてしまう。

ちょっと待ってみよう。 ワンテンポ待ってみよう。 
そうするといつもと違うエネルギーが迎えてくれるだろう。

湖面の月 [奏墨]

1997年作、墨の作品「湖面の月」。

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墨の絵は筆を自由自在に駆使し、スピードと力加減で表現できるのが魅力だ。  
瞬間に宿るある種の想いが白い綿の布地に現れる。 
滲んでいく筆跡も予想もはるかに超えてくれる。  
もはや3次元の自分は置いてけぼりをくらう。  
エゴの出番はなくなるわけだ。  
そして本来の自分が見えてくる瞬間。   
湖面に映る月のように絵は自分を映す鏡でもある。

僕の言い分 [奏墨]

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展覧会を盛会のうちに終えることができました。来ていただいた方ありがとうございました。
「青の風画」 と 「ペルソナシリーズ」 のコラボレーションが上手く調和したように思いました。
また新しい一歩を踏み出せそうです。

1996年 作 「僕の言い分」
当初 「しいたげられて」 という題名だったが、少し自虐的なので 「僕の言い分」 に変えたのを思い出す。
野菜たちも何か言いたいことがあるのではと、思いを馳せたのだが・・・。   それは勝手な思い込み。  彼らは自然そのもの。   自分を偽ることは決してない。  文句などあるはずがない。   文句を言うのは人間だけなのだ。   エゴと本来の自分との2重構造を持つ人間は、より強いパワーを持つ。   それ故についつい余計なことをしてしまう。   いよいよ2012年も終わろうとしている。  そろそろ本来の自分に戻る時なのだろう。



役を演じる [奏墨]

肩書きの無い自分はどこにいるのだろう。   あるときは男、  あるときは画家、  あるときは夫、  あるときは父親、  あるときは子供、  あるときはお客さん、  あるときは・・・・とまだまだいろんな役割を持っている。   そのつどその顔になってその役を演じるわけだ。     そしていつも何者かになっていなければ。と。     
時にその役割にほとほと疲れることもある。   言わばそんな鎧を脱ぎ捨ててみる。   素の自分がいるのかどうかを見つめてみるのもいいのかも知れない。    何者でもない自分を知る。   「足るを知る」。

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ムーントーク :「猫は猫のままで猫たりえる」
     

オリンピック [奏墨]

毎日がオリンピック三昧。    オリンピック大好き人間にとってはこの上ない時。  競技に合わせて自分の感情が大きく揺れ動く。  「ああーこの感情のあり方で人生も右往左往させられるのだなぁー」  と。    思っているところに囁いたのが 「おいお前、日がな一日テレビばっかり見て、それでいいのか。 よくないだろう。 いいおっさんが。」 と。 もう一人の自分。  そうして罪悪感を味わされるわけだ。   とほほほ・・・。  

日本人の活躍がすごいですね。   金メダルこそ少ないが多種目にわたりメダルを獲得している。   そしてまた東洋人の活躍が目立ってきた。     エリザベス女王の在位60年に合わせてのロンドンオリンピック、象徴的だ。   やっぱり 何かの時代が終わったのをひしひしと感じる。 

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ムーントーク :「勝負を超えた戦い」  

2極性 [奏墨]

 綿布に白色の下地を塗って墨で描いた作品で、15年ほど前から描き始めた。  展覧会も4回ほど開催した。
  でもここ何年かは描かなくなったのだが、墨の魅力は衰えない。   白と黒の世界。  2極性の際立ったものだがその間にある色は無限だ。  モノトーンの中にはさまざまな色を感じるときがある。   鏡のようにそのときの心を映し出すのだろう。    

ちょっと違うのだが、この世も2極性がシステム化されている。   その両極の間からなかなか抜け出せないのが現実だ。  黒か白かで迫ってくる。  まあー両極の間を行ったり来たりしているわけだ。  シーソーゲームのよう。    そして平和を勝ち取るために戦争を起こしてきたように。 

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ムーントーク :「両極を一度に見る視点が必要なのかも」
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